今日あったこと

仕事うまくいかないなー。

掌握できない。

手を離れていく。

それを戻ってこさせられない。

 

うまく反省できないのも問題。

 

マジで来年度からやっていけるのか?

すぐに干されそう。

 

「出来る限りのことをやったことを

アピールしているから、

先輩が気にかけてくれるんだと思う」

と言っていた先輩はたぶん正しい。

 

自分の信じるものなんてないから、

出来る限り、の方向性もよく分からなくなる。

 

いや、たぶん、ある。

けど、それは間違っている。

 

んー難しい。

難しいと言えば先輩への声のかけ方も。

失敗したなーその後のリカバリも。

何が正しいのか分からなくなる。

分からない。

 

というか先輩に頼る文化が

異常なまでになくね?

私が駄目なだけ?

 

そりゃこんな職業なら、

自分の信じるものがあるはずだから、

人に頼ってる暇はないんだろう。

 

ないんだろう。

 

先輩に話ができた、で、

満足してる部分がないか?

アピールできたって点は認めるけど、

根本的な解決にはなってない。

 

まして、そこで部分的に認めてもらえたからといって。

安心してはいけない。

 

一瞬たりとも安心しちゃいけないはずだ。

 

次回への課題が少ししか見えなくて

んー掛けた時間に比例しないな。

 

・具体的な指示

・細かい板書

・習慣を付けさせること。

 

―――――

 

私に決定的に足りないのは思考する時間

と、思考する忍耐力と集中力。

振り返る余裕がない、のか

 

いや、そんな甘えたこと言ってらんない

 

今しかできないことをすぐにやらなくちゃ。

すぐに。全部。

 

焦るー!

し、考えが全然足りない。

 

一通りふわーって考えるだけで、

結局建設的なこと考えてない。

 

それじゃかっこ悪いままだ。

 

頑張らなきゃ。

 

でも明日は論文取りに行かなきゃ。

 

私は誰だ。

6年間総決算

殴り書き程度。

 

自分も何もしてこなかったわけじゃなくね?

と思った時があったので。

 

「記憶」について、勉強しなかったわけじゃなくね?と。

 

もちろん程度としては全然だし、

自分のものになってない感すごいけど。

 

それは自分の言葉で表せていないからかな?

本を見ながらだったら表せることかな?

 

などと。

次回から絶対スニーカーにする

大学時代の友人と会った。

中野集合、昼食、荻窪に移動、お茶。

電車で移動だと思い込んでパンプスで行った。

甘かった。

今日会う友人たちの性格甘く見てた。

当たり前のように歩きで移動した。

 

皆定期圏内なのに!

 

途中の靴屋でスニーカーを買って、

それまで履いていたパンプスを手放した。

壊れてたからちょうどよかった。

 

更に荻窪から吉祥寺まで歩いた。

でも、前一人で松戸から馬橋まで歩いた時よりは楽に感じた。

一人じゃないって大きいんだね。

 

年末の旅行の日程と行先を決めた。

楽しみ楽しみ。

 

楽しんでいる自分と、

仕事や研究を頑張らなきゃいけない自分が、

本当なら共存していていいのに、

すごく不安定な気分になるときがあるのは、

やっぱり自分の芯がないからだろうか。

 

で。

 

会話が難しいの。

というのは、参加するのが。

なんかね。会話に参加して一言加えると、

そこで停滞するというか。

 

自分でも分かるんだよね、

「それ、今の流れで必要ないから」みたいな。

でも、なかなか変えられない。

 

どういうときにそうなったんだっけ?

 

あ、私の話をしたときだ。

それ、いらなくない?みたいな。

しかも、何の発展もないから猶更いらない。

 

あと、つっこみが下手なのかな。

相手の話の主旨じゃないところにつっこむというか。

つまらないというか。

 

難しいし、何をどう改善すればいいのか分かってない。

だめだなー。

 

会話がへたくそ、て、割とずっと問題だったな。

相槌がへたくそとか。

 

だから可愛がられないのかもしれない。

一つの要因ではありそう。

 

あーー具体的な解決策が見つからなくて気持ち悪い。

6年間総決算 そのさん

仕事の準備をしているのだけれど、

マジでうまく進まない。

考えること放棄したくなる。

 

これも6年間の中でどうにかできたことなのかな。

 

国語を教えているのだけれど、

どうすればいいのか分からなくなることがよくある。

 

それを言語化することすら難しい!

だから職場で相談するにもうまく相談できなくて、

「こいつ何言ってんだ?」で終わる。

何も考えてない阿呆が喚いているようにしか見えない。

 

まずい。

 

まずは吐き出す。

・他教科と比べて「授業受けてる」感を与えづらい

・テクニックVS内容

・捌き方

…吐き出すことすらままならないな。

言葉にした時点で何かを取りこぼしている。

全てを言葉にできない。

 

―――――

一つ目

他教科と比べて「授業受けてる」感を与えづらい

 

英語や古典なら日本語に直す作業、

理科や社会なら「新しいことを学んでいる」という実感、

数学なら「問題解いてる」という作業。

という風に、「授業受けてる」という感覚をどこかで得られる。

 

国語(現代文)はそれをどこに求めればいいのか。

 

私は今までそれは、

「文章を読んでいく思考の枠組を学んでいる」

というところにあると思っていたのだけれど、

言うてそれ、その後に活かしていけない。

数学みたいに

「この公式を使ってみよう」「使った」

という体験が得にくい。

だから教訓として残ったとしても、

実践する機会がないから、定着しない。

駄目な授業の典型じゃん?

実践がない、てやつ。

 

ん。理科とか社会とかは講義型が多いな。

そもそも考える枠組を与えることが難しいから、

まずは教え込むしかないんだろう。

生徒からすれば、

頭使わなくても時間はひとりでに流れていくから、

「授業受けてる」感はないかもしれない。

退屈そうにしている授業もあるかもしれない。

でも、講義型でも自分から頭使ってる授業はある。

何が違うんだろう!

思いつくのは

・今何の話をしているのか分かる

→話の上手さ。計画。

・面白い

→人間性、話の上手さ。

・その人の話を聞くのが楽しい

→人間性。

・教えられている知識の有用性を感じる

→生徒が何に興味があるのかを知っている、

教員自身がよく考えている

・生徒自身に頭使ってるという実感がある

→教員はそうさせている自覚がある。計画。

結局計画なのか。

「こうすれば生徒は頭を使うだろう」

んー。

じゃあ、何すれば生徒は頭使うのかな。

問題を出さなくても頭を使う場面って…?

つまり生徒と一緒にやる、ってこと。

いや、一緒にやってもつまんないって生徒はいるなあ。

興味がない生徒は。

どうすればいいのか…

あと、予想されうる生徒の頭の使い方も考えないと。

 

「授業受けてる」感をどこに求めるか、に話題を戻す。

 

「読んでいる文章の内容を学んでいる」

というのは?

これも微妙。

だってその内容試験に出ないし。

(あ、これ、今まで考えてこなかったけど、重たいな)

それから、読んで得られるものは知識じゃないし。

だから運用の仕方が分からないし。

 

「現代文の授業で何を得たか?」

という質問に対して、

「何も得なかった」

と答える生徒がめちゃくちゃ多くてビビった。

テクニックは学年とかもあるから

教えないという選択があって、

だからそういうのを得なかったというのは

まだ、分かる。

それよりびっくりしたのは、

内容をこれっぽっちも覚えていないこと。

どんな文章でも。

あ、物語は辛うじて覚えていたかな。

 

そして多分今もそれは現在進行中なのだ。

私によって。

 

そもそも「内容」て何だ。

主旨のこと?

一文一文のこと?

主旨が分かるためには文章を全部読んで、

分からないところを潰して、

とにかくある程度時間をかけて読まなきゃいけない。

一文一文にしても同じ。

とにかく理解しなきゃいけない。

 

じゃあ「理解」て何だ。

自分の言葉で説明できるようになること?

手持ちの言葉がなくても、

文章中の言葉を拾えばなんとなくまとめられる。

それは理解じゃないのか?

 

理解じゃないわ。と思うけど、

手持ちの言葉を使うことに躊躇いがある人は必ずいる。

文章の言葉以外の言葉を使えば、必ず取りこぼすものがあるから。

自分の言葉にした瞬間に、本来の文章から離れていくから。

だから文章中の言葉を無理に拾ってつぎはぎにする。

文章中の言葉だけでなんとかなるのではないか?

 

納得するためには、自分の言葉じゃないといけないのかな、と思う。

や、これはきっと感情で読めちゃう人の意見なのか。

組み立てで読む人は、自分の言葉はいらないのだろうな。

組み立てられているものから取り出して来ればいいんでしょ?

 

わかんね。

 

―――――

授業。

本文読む。これしないと始まらないから。

で、次から全く分からなくなる。

何すればいいの?

ゴールなんか決まってんじゃん。

「内容理解」。

どういうシュートをするかが分かんない。

 

指導書とかまじでウケる。

「活動内容」のところに

「○段落の内容を確認する」。

これで指導書かよ???

「どうやって」確認するか、が分かんないんですが。

 

「わかった?」て聞くの?アホなの?

「要約しろ」っていうの?あほなの?

 

や、授業の設計図ができないのは、

私が素材文をさくっとしか読めてないからなのでは。

良く読めていれば授業の設計図もできるのでは。

 

そう思った時にすぐ出てくるのが、

「私がいくら文章読めてても、

それを使って授業したら意味なくね?」。

だって頭使わせたいのは生徒で、

生徒は授業でしか文章を読まないわけで、

その程度しか読んでない連中に、

自分の持っているたくさんのものを使って

授業をするってそれ、

フェアじゃないというか

 

じゃあ生徒と同じ目線におりて進めばいいじゃん?

違うね。だとしたら一つの文章に何時間かけても足りない。

 

じゃあある程度方向性示すしかないじゃん?

それが気持ち悪いんだよ。道を示して歩かせることが授業じゃない。

少なくとも、それが全てになったら授業じゃない。

現代文はそれが全てになりかねない。

実践の場がないから。

 

無理な気がしてきた。

私が何十時間もかけて分かることを、

生徒がものの三、四時間で分かるためには、

やっぱりどこかで「分からせる」部分がある。

気持ち悪い!!!!!

 

以前先輩に、

「私が何十時間もかけて到達しているレベルに

生徒をその十分の一の時間で到達させるって無理では」

て言ったら、

「あなたのレベルに到達させる必要はない」

と言われたけれど、

私の聞き方が悪かった。くそ!

正しくは、

「私はこの文章が最低限分かるまでに何十時間もかけたが、

生徒にはその十分の一の時間で到達させなければならない。

それは無理では」だ。

私は100持っていて、

生徒にも100教える時間はないのでは、

じゃなくて、

私は100持っていて、

最低限、10教えなければならないとする。

でも、その10ですら私が得るには何十時間も必要で、

それを短時間で生徒に得させられるわけねーだろ!

ってこと。

 

現代文の授業って

現代文読めるようにするための授業じゃねーな。

 

どこまでおりて、

どこから引っ張るのか。

引っ張ることに妥当性はあるのか。

 

抽象的なこと並べられても、

今やってる文章で

具体的に何をすればいいのか、って

分かんないな。

 

「流しちゃって大丈夫」

「割と生徒は分かってる」

て、何を以てそう言ってるんだろう。

 

わかんねー。

 

生徒が何考えてんのかもっと考える必要はある。

 

どうやって?

 

一読しただけじゃ駄目。

というか流して読んでても分かることって少ない。

そりゃ流して読んで得られるものを増やしていく

トレーニングは必要だけども。

 

自分で考えて構造をまとめていくという機会は必要。

そのために個々に時間を与える必要。

や、そのためには内容が分からないといけない?

 

いや、ヒントさえあれば

内容が分からなくても構造は見える?

(これは考えないといけない)

 

ちょっと見えたかもしれない。

問題演習とは少し別のところで。

 

具体的に考えたい。

6年間総決算 そのに

考えるのだるいな、と思った。

どうせ何も出てこねーだろ、と。

 

大事なのはこれからどうするかだし、

これからがこれまでの私の価値を決めていくから、

確かに振り返りは必要ない気もするけど。

 

でもこれやらなかったらガチで

私6年間ごみくずでした、としかならないから

 

―――――

 

そもそもどうしてこんなことをやろうと思ったのかというと。

そこから始めよう。

 

職場にいる人たちが本当に優秀な人たちばかりで、

自分はこのままだと見棄てられる、と焦ったからというのと、

高校の同級生に会って、話して、

その子が色んな考えや答えを持っていて、

それを語っていて、

私にそれだけ語れる何かはあるか?と思ったのと。

 

「このまま」て何だろう。

・仕事へたくそ

・話つまんない

・気が利かない

・周囲が見えてない

・強みがない

・頑張ってない

・人付き合いへたくそ

一つ一つ変えていくしかない。

 

ここでいつも私の思考を邪魔するのが、

駄目な奴は何しても駄目

て価値観。

 

確かにそう。駄目な奴は何しても駄目。本当に駄目。

実際そういう人たちを何人も見てきた。

そういう人たちは何も考えてなくてそうなったわけじゃない。

その人たちもたくさん考えていた。

なのに駄目だった。怖くない?

 

私がそうだとして、「じゃあやめるの」?

やめないのなら、やるしかない。

この自問自答あと何回繰り返すんだろう。

 

そして、いつになったら「やめなきゃ」て思わなきゃいけないんだろう。

 

―――――

 

たぶん一番考えたいのは上記のうち

「強みがない」

だと思うので、これについて考えようと思う。

 

強み、と聞いた時に、まず浮かんだのは、

昔から自分の心にあった

「譲れないことは、さっさと他人に譲ること」ってやつ。

譲れないほどの強い自分なんてないから、

我を張る相手の好きにさせておけば良い、という。

 

でも言うてそこまで譲ってこなかったのではないかとも思う。

実はやりたがりなんだよね。

悉く失敗ばかりしてきたけど。

 

強く出る他人にはさっさと譲ってきたけど、

自分より主張の弱い人たち相手には、

我をめっちゃ張っていた気がする

 

ん。どうなんだろう。

我を張るというか、自分が受け持つというか。

自分の意見を曲げないことはそんなになかった?

 

いや、あった。

サークルの代表だったときに、

皆で支え合おう、と提言してくれた同期に向かって、

本人に責任持たせろ、と譲らなかったことがあった。

ハナから皆で手伝い合うという風潮を作るな、と。

それから、来づらい人への配慮を、との提案にも、

そんなのを団体全体の方針にはできない、

今いる人たちが居やすい環境を第一に目指すべきだ、と言った。

 

その年は問題がクソほど起こった。

それの原因は私にあったんだろうか?

 

私の当時の価値観が悪かったとは思わないけれど、

現状を把握することは怠けた。これは反省しなければならない。

報告を求める以前に自分が知っておかなきゃいけないことがあった。

 

ん。それも役職者各人の責任?

 

B1の時の自分すげーなって思ったのは、

周囲を見て具に記録を取っていたこと。

B1の時にそんなことしてたから、

後輩たちにもそういう眼差しを期待していたのかもしれない。

 

B1が周囲を良く見ていたとしても、

運営代になるまでその眼差しを持ち続けなきゃ意味がないのに。

私はどこかでその眼差しを捨てていた。

団体よりも甘くて幸せな場所を見つけてしまったからかな。

 

そんなクソみたいな運営代時代だったけれど、

周囲の人たちが良い人たち過ぎて、

自分が疎まれ者とか無能とか思われているという感触はなかった。

きっと先輩や後輩たちから少なからず信頼を寄せてもらえていた

というのもあるのだろうけれど、

それは私にそういうしっかり者のスキルがあったから、ではなくて、

ノリの良さとかそういうもののおかげだったのかもしれない。

 

そういう6年間だったのかもしれない。

 

自分の実力ではなく媚態で味方を作り

居心地のよい空間に浸っていた

そういう6年間だったのかもしれない。

 

いや。

媚態ですらない。

自分の不幸話で相手を喜ばせていただけだ。

 

この生き方に必要なものは一つだけ。

人付き合いのスキルは不要。

頭の良さも不要。

実力も不要。

 

ただ、他人を喜ばせる、蜜の味のする不幸話さえあれば良い。

 

不幸話は幸せ自慢ではないから聞いている側が羨ましく思うこともない。

寧ろ予測不可能・非常識の出来事の連続で面白いとすら感じたかもしれない。

私の方も笑い飛ばしてくれと言わんばかりの態度で話すからシリアスにもならない。

 

そうやって得てきた人間関係に、

自分は優れているだとか、

自分は可愛がられ上手だとか、

勝手な理由づけをして満足していただけ。

 

少し納得してきた。

 

―――――

 

ん。冷静じゃないよって?

 

そうかな。

もしかしたら、私には本当に実力があるかもしれない?

それを買ってくれていた人がいたかもしれない?

 

サークルに関していえば出席率だけの問題だし、

ゼミに関しても実力を認められたことなどない。

 

あったとしてもB1で全部なくしたっぽい。

B1の時から、考えることを放棄していたんだと思う。

 

どうして発表がうまくいかなかったのか、

どうしてうまく考察ができなかったのか、

 

どうして練習がうまくできなかったのか、

どうして団体がうまく回らないのか。

 

そんなことより甘くて暖かいものに浸っていたかったんだ。

それに浸っていることが絆の補強になると信じていた。

 

まあ具体的にいえば、恋人の存在だ。

 

それか。結局。

 

他人のせいじゃない。

自分の弱さのせいだ。

 

甘え合うためにいるわけじゃない、

尊敬できる相手と付き合いたい、

素敵になっていこうね、

 

それらの言葉はいったい何だったのか。

 

たぶんそれらの言葉を遂行する具体的な手段を分かっていなかった。

そのためにはある程度まとまった時間が必要だったんだよ。

 

思考するための時間てなかったな。そういえば。

 

そりゃ、思考する元気がなかっただけのことかもしれないけど。

思い出してみると、思考することが有意義だと思わなくなった気がする。

 

それに、思考するための時間にするくらいなら、

他のことにその時間を使っていたんじゃないかな。

主に他人と過す時間に。

 

あと、自分の性格の問題として、

悩みが長持ちしなくなったというか。

練習上手くいかなくても帰り道で反省したことあまりないと思うし、

ゼミ発表上手くいかなくても同様。

振り返る頃には割と忘れてたりどうでもよくなったりしてる。

 

私にとってゼミやサークルはその程度の存在感だったということなのかな。

 

ゼミに関してもう一つ。

たぶん目的が「怒られない」「馬鹿にされない」になった。

だから「これさえやりゃいいんだろ」というスタンスになった。

 

眠いから続きはまた明日以降。

6年間総決算 そのいち

学生生活も残すところ半年を切った。

小学校6年間、中高一貫校で6年間、

そして大学も院含め6年間。

まとまりのある6年間というのはたぶんもうないだろう。

 

気付いたら学生生活が終わりに差し掛かっていた。

あっという間だった。

色々なことがあった。

 

そりゃもうたくさん。

 

波乱万丈さには自信のある6年間だったけれど、

さて、その中身は如何程のものだったか。

それを振り返る時が今なのだと思った。

 

きっかけはたくさん。

大事に抱えていたものを手放したこと、

自分の持ち物の少なさに気付いたこと、

同僚と話す機会があったこと、

高校時代の友達と話す機会があったこと。

 

何が変わって、何が変わらなくて、

何を得て、何を失ったのか、

冷静に見ておきたいと思った。

感情的になって、

「自分は何も得られず、何も変われなかった」

と叫ぶのは簡単。

危うくそうするところだった。

でも、それじゃ前に進めないから、

 

というより、今はそもそも、

前に進む自分って奴が何者なのかが分からなくなってしまったから、

冷静に考え直したい。

 

本当は修論出してからにしようと思ったのだけれど、

それじゃ遅すぎると直感した。

というか、今でさえ遅すぎる。

 

本当は。

6年間近くにいてくれた人たちに話を聞いてもらう中で、

整理していって「自分はこれだ」と答えを見つけるつもりでいた。

 

でもそれじゃ今までと何も変わらないと気付いた。

他人の眼に映る自分を探しても、

結局それって他人のせいにできてしまう。

だから自分が把握する自分を見ないと。

 

とはいえ、その結果もたらされるものが何なのかよく分からない。

自分についてよく分かれば、自信がつくのかしら。

芯のある言葉の使い手になれるのかしら。

「こいつやるな」って思ってもらえるのかしら。

 

どうだか。

 

でも、やれることは全部やるしかないものね?