6年間総決算 そのさん

仕事の準備をしているのだけれど、

マジでうまく進まない。

考えること放棄したくなる。

 

これも6年間の中でどうにかできたことなのかな。

 

国語を教えているのだけれど、

どうすればいいのか分からなくなることがよくある。

 

それを言語化することすら難しい!

だから職場で相談するにもうまく相談できなくて、

「こいつ何言ってんだ?」で終わる。

何も考えてない阿呆が喚いているようにしか見えない。

 

まずい。

 

まずは吐き出す。

・他教科と比べて「授業受けてる」感を与えづらい

・テクニックVS内容

・捌き方

…吐き出すことすらままならないな。

言葉にした時点で何かを取りこぼしている。

全てを言葉にできない。

 

―――――

一つ目

他教科と比べて「授業受けてる」感を与えづらい

 

英語や古典なら日本語に直す作業、

理科や社会なら「新しいことを学んでいる」という実感、

数学なら「問題解いてる」という作業。

という風に、「授業受けてる」という感覚をどこかで得られる。

 

国語(現代文)はそれをどこに求めればいいのか。

 

私は今までそれは、

「文章を読んでいく思考の枠組を学んでいる」

というところにあると思っていたのだけれど、

言うてそれ、その後に活かしていけない。

数学みたいに

「この公式を使ってみよう」「使った」

という体験が得にくい。

だから教訓として残ったとしても、

実践する機会がないから、定着しない。

駄目な授業の典型じゃん?

実践がない、てやつ。

 

ん。理科とか社会とかは講義型が多いな。

そもそも考える枠組を与えることが難しいから、

まずは教え込むしかないんだろう。

生徒からすれば、

頭使わなくても時間はひとりでに流れていくから、

「授業受けてる」感はないかもしれない。

退屈そうにしている授業もあるかもしれない。

でも、講義型でも自分から頭使ってる授業はある。

何が違うんだろう!

思いつくのは

・今何の話をしているのか分かる

→話の上手さ。計画。

・面白い

→人間性、話の上手さ。

・その人の話を聞くのが楽しい

→人間性。

・教えられている知識の有用性を感じる

→生徒が何に興味があるのかを知っている、

教員自身がよく考えている

・生徒自身に頭使ってるという実感がある

→教員はそうさせている自覚がある。計画。

結局計画なのか。

「こうすれば生徒は頭を使うだろう」

んー。

じゃあ、何すれば生徒は頭使うのかな。

問題を出さなくても頭を使う場面って…?

つまり生徒と一緒にやる、ってこと。

いや、一緒にやってもつまんないって生徒はいるなあ。

興味がない生徒は。

どうすればいいのか…

あと、予想されうる生徒の頭の使い方も考えないと。

 

「授業受けてる」感をどこに求めるか、に話題を戻す。

 

「読んでいる文章の内容を学んでいる」

というのは?

これも微妙。

だってその内容試験に出ないし。

(あ、これ、今まで考えてこなかったけど、重たいな)

それから、読んで得られるものは知識じゃないし。

だから運用の仕方が分からないし。

 

「現代文の授業で何を得たか?」

という質問に対して、

「何も得なかった」

と答える生徒がめちゃくちゃ多くてビビった。

テクニックは学年とかもあるから

教えないという選択があって、

だからそういうのを得なかったというのは

まだ、分かる。

それよりびっくりしたのは、

内容をこれっぽっちも覚えていないこと。

どんな文章でも。

あ、物語は辛うじて覚えていたかな。

 

そして多分今もそれは現在進行中なのだ。

私によって。

 

そもそも「内容」て何だ。

主旨のこと?

一文一文のこと?

主旨が分かるためには文章を全部読んで、

分からないところを潰して、

とにかくある程度時間をかけて読まなきゃいけない。

一文一文にしても同じ。

とにかく理解しなきゃいけない。

 

じゃあ「理解」て何だ。

自分の言葉で説明できるようになること?

手持ちの言葉がなくても、

文章中の言葉を拾えばなんとなくまとめられる。

それは理解じゃないのか?

 

理解じゃないわ。と思うけど、

手持ちの言葉を使うことに躊躇いがある人は必ずいる。

文章の言葉以外の言葉を使えば、必ず取りこぼすものがあるから。

自分の言葉にした瞬間に、本来の文章から離れていくから。

だから文章中の言葉を無理に拾ってつぎはぎにする。

文章中の言葉だけでなんとかなるのではないか?

 

納得するためには、自分の言葉じゃないといけないのかな、と思う。

や、これはきっと感情で読めちゃう人の意見なのか。

組み立てで読む人は、自分の言葉はいらないのだろうな。

組み立てられているものから取り出して来ればいいんでしょ?

 

わかんね。

 

―――――

授業。

本文読む。これしないと始まらないから。

で、次から全く分からなくなる。

何すればいいの?

ゴールなんか決まってんじゃん。

「内容理解」。

どういうシュートをするかが分かんない。

 

指導書とかまじでウケる。

「活動内容」のところに

「○段落の内容を確認する」。

これで指導書かよ???

「どうやって」確認するか、が分かんないんですが。

 

「わかった?」て聞くの?アホなの?

「要約しろ」っていうの?あほなの?

 

や、授業の設計図ができないのは、

私が素材文をさくっとしか読めてないからなのでは。

良く読めていれば授業の設計図もできるのでは。

 

そう思った時にすぐ出てくるのが、

「私がいくら文章読めてても、

それを使って授業したら意味なくね?」。

だって頭使わせたいのは生徒で、

生徒は授業でしか文章を読まないわけで、

その程度しか読んでない連中に、

自分の持っているたくさんのものを使って

授業をするってそれ、

フェアじゃないというか

 

じゃあ生徒と同じ目線におりて進めばいいじゃん?

違うね。だとしたら一つの文章に何時間かけても足りない。

 

じゃあある程度方向性示すしかないじゃん?

それが気持ち悪いんだよ。道を示して歩かせることが授業じゃない。

少なくとも、それが全てになったら授業じゃない。

現代文はそれが全てになりかねない。

実践の場がないから。

 

無理な気がしてきた。

私が何十時間もかけて分かることを、

生徒がものの三、四時間で分かるためには、

やっぱりどこかで「分からせる」部分がある。

気持ち悪い!!!!!

 

以前先輩に、

「私が何十時間もかけて到達しているレベルに

生徒をその十分の一の時間で到達させるって無理では」

て言ったら、

「あなたのレベルに到達させる必要はない」

と言われたけれど、

私の聞き方が悪かった。くそ!

正しくは、

「私はこの文章が最低限分かるまでに何十時間もかけたが、

生徒にはその十分の一の時間で到達させなければならない。

それは無理では」だ。

私は100持っていて、

生徒にも100教える時間はないのでは、

じゃなくて、

私は100持っていて、

最低限、10教えなければならないとする。

でも、その10ですら私が得るには何十時間も必要で、

それを短時間で生徒に得させられるわけねーだろ!

ってこと。

 

現代文の授業って

現代文読めるようにするための授業じゃねーな。

 

どこまでおりて、

どこから引っ張るのか。

引っ張ることに妥当性はあるのか。

 

抽象的なこと並べられても、

今やってる文章で

具体的に何をすればいいのか、って

分かんないな。

 

「流しちゃって大丈夫」

「割と生徒は分かってる」

て、何を以てそう言ってるんだろう。

 

わかんねー。

 

生徒が何考えてんのかもっと考える必要はある。

 

どうやって?

 

一読しただけじゃ駄目。

というか流して読んでても分かることって少ない。

そりゃ流して読んで得られるものを増やしていく

トレーニングは必要だけども。

 

自分で考えて構造をまとめていくという機会は必要。

そのために個々に時間を与える必要。

や、そのためには内容が分からないといけない?

 

いや、ヒントさえあれば

内容が分からなくても構造は見える?

(これは考えないといけない)

 

ちょっと見えたかもしれない。

問題演習とは少し別のところで。

 

具体的に考えたい。